【黒人奴隷制度とファッションの歴史】白い繊維に刻まれた支配 コットンが紡いだアメリカの歴史とファッション

キング・コットンの裏側に隠された真実
白いTシャツを着る。デニムジーンズを履く。シンプルで、当たり前の日常。しかし、その柔らかなコットンの繊維には、語られることの少ない歴史が織り込まれている。
アメリカ南部で「キング・コットン」と呼ばれた綿花産業。その王国を支えたのは、アフリカから連れてこられた何百万もの黒人奴隷たちだった。私たちが愛するコットン製品、Tシャツ、ジーンズ、チノパン、すべてのアメリカンカジュアルファッションの根底には、この歴史が流れている。
今回は、コットンと奴隷制度、そしてファッションの知られざる関係に光を当てる。
コットン帝国の誕生 ── 18世紀の綿花プランテーション
18世紀、アメリカ南部では藍、米、タバコなどのプランテーション農業が行われていた。しかし、綿花はまだ主要作物ではなかった。理由は単純である。綿花から種子を分離する作業があまりにも困難で時間がかかったからだ。
1人の労働者が手作業で綿花の種を取り除くのに、1ポンド(約450グラム)の繊維を得るのに約10時間かかった。これでは商業的に成立しない。綿花は「儲からない作物」だったのである。
ところが、18世紀末のイギリスで産業革命が起こる。綿工業が飛躍的に発展し、原料である綿花の需要が爆発的に高まった。もしアメリカ南部が大量の綿花を供給できれば、巨万の富を得られる。しかし、問題は種取り作業だった。
1793年、一つの発明がすべてを変えた
1793年、イーライ・ホイットニーという若者が、ジョージア州のプランテーションで綿繰機(コットン・ジン)を発明した。
イエール大学を卒業したばかりのホイットニーは、家庭教師の職を求めてジョージアに来ていた。プランテーションの夕食会で、綿花栽培の困難さについて話を聞いた彼は、機械を開発することにした。伝説によれば、彼は猫が金網越しにニワトリにちょっかいを出す様子を見て、このアイデアを思いついたという。
綿繰機は革命的だった。フックのついた木製ドラムを回転させ、金網越しに綿繊維だけをドラムが巻き取る。種は金網を通らない。1台の綿繰機で、1日に25キログラムもの綿花から種を除ける。作業効率が従来の50倍になったのである。
この発明は、アメリカ南部の運命を、そして何百万もの黒人奴隷の運命を変えることになる。
綿花王国の栄華 ── 奴隷制度の再活性化
綿繰機の発明前、奴隷制度は衰退の傾向にあった。多くの奴隷所有者が奴隷を解放し始めていた。建国の父ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンも、19世紀に入れば奴隷制度は消滅するだろうと考えていた。
しかし、彼らは悲しい誤りを犯した。
綿繰機の発明後、アメリカの綿花輸出量は爆発的に増加した。1793年には約230トンだったものが、1810年には4万2,000トンに達した。綿花はアメリカの主要輸出品となり、1820年から1860年までアメリカの輸出の半分以上を占めるようになった。
そして、綿花生産量の増加と連動して、奴隷の数も急増した。
- 1790年:約70万人
- 1800年:89万4,000人
- 1820年:153万8,000人
- 1840年:248万7,000人
- 1860年:395万4,000人
アメリカ南部は「コットン・キングダム(綿花王国)」「コットン・ベルト(綿花地帯)」と呼ばれるようになった。サウスカロライナ州知事ジェームズ・ヘンリー・ハモンドは「コットンはキングだ」と表現した。しかし、歴史家が指摘するように、「コットンがキングだとするなら、その臣下はくたくたに疲れはてた奴隷であった」。
綿花畑の現実 ── 終わりなき労働
綿花栽培は典型的な労働集約型産業だった。春に種を蒔き、夏の間は雑草取り、秋には収穫。すべてが手作業である。灼熱の太陽の下、奴隷たちは一日中腰をかがめて綿花を摘み続けた。
1人の労働者が手作業で1ポンドの綿繊維を得るのに約10時間かかっていたが、2、3人の奴隷のチームが綿繰機を使えば、わずか1日で約50ポンドの綿花を生産できた。しかし、それは奴隷たちの労働がより過酷になったことを意味した。
綿花は、土壌を急速に疲弊させる。そのため、プランターたちは常に新しい肥沃な土地を求めた。アメリカが西へ西へと領土を拡大するにつれ、綿花栽培も西へと広がった。そしてそれは、既存の奴隷家族を引き裂き、彼らが知っている人や場所から遠く離れた土地へ強制的に移動させることを意味した。
歴史家アイラ・バーリンは、この移動を「第二次中間経路」と呼んだ。大西洋奴隷貿易の恐怖を、再び思い出させるものだったからである。
解放後も続いた搾取 ── シェアクロッパー制度
1865年、南北戦争の終結とともに奴隷制度は廃止された。しかし、解放された黒人たちに自立できる基盤は与えられなかった。土地も資本も持たない彼らの多くは、再び綿花プランテーションに戻ってきた。
そこで導入されたのが「シェアクロッパー(分益小作人)」制度である。白人プランターが土地と農具、種子を貸し与え、黒人は生産した綿花の3分の1から2分の1を地代として支払う。さらに利息付きで賃料を払う。このシステムは、黒人を事実上の債務奴隷と化した。
社会学者W.E.B.デュボイスは、このシステムについて次のように記している。「綿花単作農業制度であり、絶えまのない小作人の破産である。黒人地帯における通貨は、綿花である。(中略)この制度の下ではそれは出来ない相談である。おまけに、この制度は、小作人を破産させるようになっている」。
1880年代から1920年代まで、この制度は南部一帯に広がった。解放から半世紀以上経っても、黒人たちは綿花畑に縛り付けられたままだった。
コットンが生んだファッションアイテム
皮肉なことに、奴隷制度によって生産されたコットンは、現代のファッションを形作った。
Tシャツ。第一次世界大戦中、アメリカ海軍で支給されていた制服はウール素材で分厚く重かった。一方、ヨーロッパ兵は綿素材のアンダーウェアを着用していた。これを真似てアメリカ兵が作った綿シャツが、Tシャツの原型である。第二次世界大戦後、帰還兵たちが街でTシャツをトップスとして着こなす姿が、一般市民に受け入れられていった。
デニム。すでに別の記事で詳述したように、デニムもまたコットン製である。ゴールドラッシュの鉱夫たちが着たワークウェアから、1950年代のマーロン・ブランドとジェームズ・ディーンによって反抗のシンボルへ、そしてヒッピーたちの自由の象徴へと変化していった。
チノパン。軍用パンツとして開発されたチノパンも、コットン製である。カジュアルファッションの定番アイテムだ。
これらすべてのアメリカンカジュアルファッションの根底には、綿花プランテーションと奴隷制度の歴史が流れている。
まとめ:白い繊維が語る、もう一つの真実
コットンは柔らかく、肌触りが良く、吸水性に優れている。私たちはその快適さを愛している。しかし、その白い繊維が紡がれた歴史は、決して美しいものだけではない。
1793年の綿繰機の発明は、アメリカ南部に巨万の富をもたらした。しかしそれは同時に、衰退しつつあった奴隷制度を再活性化させ、何百万もの人々を綿花畑に縛り付けることになった。「コットンはキングだ」という言葉の裏には、くたくたに疲れはてた奴隷たちの存在があった。
1865年に奴隷制度は廃止されたが、シェアクロッパー制度という形で搾取は続いた。20世紀前半まで、黒人たちは綿花畑から離れることができなかった。
現在、私たちが着ているコットン製品、Tシャツ・ジーンズ・チノパンは、快適で、カジュアルで、アメリカンファッションの象徴である。しかし、その繊維一本一本には、この歴史が織り込まれている。
インディゴブルーが奴隷たちの知識と労働から生まれたように、コットンもまた奴隷たちの汗と涙によって生産された。この事実を知ることは、ファッションへの愛情を減じるものではない。むしろ、その背後にある人々の貢献と苦難を理解することで、私たちが着る服への敬意は深まる。
白いTシャツを着るとき、デニムジーンズを履くとき、その柔らかな感触の奥に、語り継がれるべき歴史があることを知ってほしい。コットンは美しい。しかし、その美しさの背後には、決して忘れてはならない記憶がある。
「キング・コットン」の栄華は、無数の人々の犠牲の上に築かれた。その真実を知ることこそが、アメリカンファッションを真に理解する第一歩である。