【黒人文化とファッションの歴史】音と布が紡ぐ反逆  ブルース、ジャズが生んだ黒人ファッションの系譜

楽器が奏でた、もう一つのアメカジ史

音楽とファッションは、常に不可分の関係にあった。しかし、ブルースやジャズが黒人ファッションに与えた影響は、単なる流行を超えた意味を持つ。それは生存戦略であり、アイデンティティの宣言であり、そして抵抗の表現だった。

前回の記事で、インディゴブルーに刻まれた奴隷制度の記憶について語った。今回は、その青い染料と同じ土壌から生まれた音楽、ブルースとジャズが、どのようにアメリカンファッションを形作ってきたのかを追う。

ブルースという起源 ── 綿畑から生まれた魂の歌

1860年代、南北戦争後の南部。解放された黒人たちが、綿畑やプランテーションでの労働の中から生み出したのがブルースだった。ワーク・ソング、フィールド・ハラー、スピリチュアル。これらすべてが混ざり合い、ブルースという音楽形式が誕生した。

このブルースを演奏していた初期のミュージシャンたちが着ていたのは、まさに労働者の服そのものだった。デニムのオーバーオール、粗い綿のシャツ、そして擦り切れた帽子。デルタ・ブルースの創始者とされるチャーリー・パットン、伝説のロバート・ジョンソン、サン・ハウス、彼らの多くは、実際に畑で働きながら音楽を奏でていた。

しかし1920年代になると、ブルースは変化する。「シティ・ブルース」あるいは「アーバン・ブルース」と呼ばれるスタイルが台頭した。マ・レイニーやベッシー・スミスといった女性ブルース歌手たちは、きらびやかなドレスと羽飾りの帽子で舞台に立った。彼女たちは、「礼儀正しい社会」に迎合するのではなく、その価値観そのものを作り変えようとしていた。農村部の泥臭いブルースと、都会の洗練されたブルース。二つの流れは、それぞれ異なるファッションを纏いながら、アメリカ音楽の根幹を形成していった。

ズートスーツの誕生 ── 戦時下の反逆

1940年代初頭、第二次世界大戦が始まる直前のアメリカで、一つの衝撃的なファッションが生まれた。ズートスーツである。

極端にオーバーサイズのジャケット、肩には厚いパッド、膝まで届きそうな長さ。パンツは股上が深く、太ももは極端に太く、裾に向かって細く絞り込まれている。派手な色彩、赤、黄色、ピンク、紫。そしてそれを着る者たちは、髪を薬品で伸ばした「コンク」スタイルにしていた。

このズートスーツを広めたのは、ジャズミュージシャンのキャブ・キャロウェイだった。ちなみに「ズート(Zoot)」という言葉自体が、ジャズ用語で「掛け声」や「合いの手」を意味する。彼のエンターテイナーとしての魅力は、このスーツによってさらに増幅された。

ズートスーツは、黒人やメキシコ系アメリカ人の若者たちのアイコンとなった。しかし、これは単なる流行ではなかった。戦時下、政府は物資の節約を奨励していた。ズートスーツは大量の生地を使う。つまり、それを着ることは反社会的行為とみなされた。オーバーサイズの服を着飾ることは、彼らの自由と反抗心の表現だったのである。

1943年6月3日、ロサンゼルスで「ズート・スーツ・ライオット」と呼ばれる暴動が起きた。白人の水兵たちがズートスーツを着た若者たちを襲撃した事件だ。人種差別と戦時下の緊張が爆発した瞬間である。ズートスーツは、ファッションであると同時に、政治的声明だった。

ビバップとアイビーの出会い ── 知的な反抗

1940年代から50年代、ジャズは新しい局面を迎える。ビバップの誕生である。

チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク。彼らは、白人に真似されにくい複雑な音楽を創造した。スウィング・ジャズが大衆娯楽だったのに対し、ビバップは芸術音楽であり、黒人のアイデンティティそのものだった。

そして彼らが選んだファッションが、アイビー・ルックだった。正確には、「ジャイヴィー・アイヴィー」遊び心を込めて改造されたアイビースタイルである。

4つボタン、狭いVゾーン、細いラペル、胸ポケットの省略、丈の短いパンツ、ラウンド・カラーのボタンダウンシャツ、サイド・ゴア・ブーツ。これらは、白人エリート大学のアイビースタイルを、黒人独特の感覚でデフォルメしたものだった。リー・モーガンやアート・ブレイキーのレコード・ジャケットを見れば、このスタイルがいかに洗練されていたかがわかる。

なぜ彼らは、白人社会の象徴であるアイビースタイルを選んだのか。それは巧妙な戦略だった。スーツを着ることで白人聴衆に受け入れられようとしながら、独自の工夫を凝らすことで反抗の姿勢を示す。白人社会はその反抗に気づかなかった。あまりにもスタイリッシュだったからである。

ある評論家はこう語っている。「ビバップという音楽は、真似した白人ばかりが儲かる社会構造のなかで白人の真似できないスタイルを作り出したいという黒人のアイデンティティそのものであった」。ファッションもまた、そのアイデンティティの一部だった。

ブルースマンの二つの顔 ── 労働と夜の世界

一方、ブルースの世界では、二つのスタイルが共存していた。

昼間は畑で働くミュージシャンたちは、デニムのオーバーオールや作業着を着ていた。しかし夜、酒場や娼館で演奏するときには、彼らは別の顔を持った。当時手に入った軍楽隊の払い下げ楽器を演奏するとき、彼らはできる限りのおしゃれをした。シンプルなスーツ、きちんとしたシャツ、ハット。

ジョン・リー・フッカーは黒いスーツにサングラスを合わせた。B.B.キングは華やかなステージ衣装を好んだ。マディ・ウォーターズは、シカゴに移住してからスタイルを洗練させていった。

彼らにとって、音楽とファッションは、貧困と差別からの一時的な脱出口だった。そして同時に、自分たちの尊厳を守る手段でもあった。

ジェームズ・ブラウンがジーンズを拒んだ理由

興味深い事実がある。「ソウルの帝王」ジェームズ・ブラウンは、生涯ジーンズを履くことを拒んだ。バンドメンバーにもジーンズの着用を禁じた。

理由は明確だった。多くのアフリカ系アメリカ人にとって、デニムのワークウェアは小作農制度の痛ましい思い出だったからである。南部から北部へ移住した黒人労働者の多くは、工場での仕事にスーツ、ネクタイ、帽子を着用した。畑での労働と距離を置くためだった。

しかし1960年代、デニムは全く新しい意味を持つことになる。公民権運動の活動家たちがデニムを連帯の象徴として選んだとき、デニムは労働者階級の誇りを表すアイテムへと変貌した。

まとめ:音楽が紡いだファッションの物語

ブルース、ジャズ、そしてそこから生まれたR&B、ソウル、ヒップホップ。これらすべての音楽は、独自のファッションを生み出してきた。

ズートスーツは戦時下の反抗を表現した。ビバップのジャイヴィー・アイヴィーは、知的な抵抗の形だった。ブルースマンのステージ衣装は、尊厳の主張だった。そして公民権運動のデニムは、連帯の証だった。

ロラン・バルトは言った。「ファッションは『私とは誰か』という問いと戯れている」。黒人ミュージシャンたちは、まさに全身全霊を込めて「この国において自分たちは何者か」と問うた。その問いが、クールでヒップなファッションに結実した。

音楽とファッションの裏地には、闘争の歴史の糸が縦横に織り込まれている。アメリカンカジュアルファッションを語るとき、その音楽的ルーツを無視することはできない。インディゴブルーの染料が奴隷たちの知識から生まれたように、ジャズやブルースもまた、抑圧された人々の創造性から生まれた。

彼らが奏でた音楽は、今も世界中で響いている。そして彼らが纏った服は、今もストリートで着られている。音と布が紡いだ反逆の物語は、決して過去のものではない。それは今も、私たちのワードローブの中で生き続けている。

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